時代が少し進んで1900年代になると、邦画と洋画の区別は多少つくようにはなります。しかし、洋画の原題が不明でどこで作られたものなのかを特定することができません。この時期、現代からは想像もつかないかもしれませんが、ビジネスとしての映画はフランス資本が世界を席巻していました。特にパテ社は世界中に撮影者を派遣し、後には各地に支社を作って、映画を製作していました。ロシアでも早い時期からパテをはじめとするフランスのカメラマンがロシアで撮影し、やがてパテ、後には同じくフランス資本のゴーモンのスタジオがモスクワに作られて映画が製作され、それがロシアにとっての"映画学校"であったことが「ソヴェート映画史―七つの時代」に書かれています。フランスの会社の製作・配給作品であってもロシア産である可能性があるのです。
以下の作品を資料から見つけることができました。題名からいかにも"ロシア"と思われるものを拾い出したものです。何しろ「新ほととぎす」という題名の作品が"父のために身を売りし佳人サラユールの運命"と宣伝される"外国劇"(外国映画)なのです。想像力を逞しくしてみても"露国"とか"モスコー"などという単語でもないと題名だけは判別がつきません。
1903年(明治36年)
露国の国境
1903/12/1両国井生村楼封切
この作品は、当時の人気奇術師、天一の奇術を実写した「天一の活動写真」に併映されたもののうちの1本です。
1903年は日本の年号では明治36年にあたります。翌年、1904年には日露戦争が始まります。緊迫した情勢の中で、あるいは日本から派遣されたカメラマンが撮影したものかもしれません。1903年8月25日の「錦輝館活動大写真」のプログラムは「日英露活動写真」と銘打たれています。「ロシアと一戦交えるべし!」そんな時代の風潮なのでしょうが、"日英露"の"露"に相当する映画が何だったのかは不明です。
1904年2月、日露戦争の勃発と同時に"活動写真"の輸入・製作・上映を手がけてきた吉沢商店は、専属のカメラマンを戦地に派遣します。5月には、この第一報とともに、各国の従軍カメラマンの撮影した映画も一緒にして上映されています。この後、戦争が終わる1905年、さらに1906年頃までは、新しく公開される映画は「日露戦争」もののオンパレード。明治時代の世相史のうえでは、こうした日露戦争のフィルムが、日本で映画を大衆的なものとして普及させる一因ともなったとされています。この時期の映画のプログラムは"露"の字で埋め尽くされています。
各国の特派員が入り乱れて、日露双方の戦線の様子をフィルムに収めたようですが、ロシア側を撮影したものかもしれないと思われるものに以下のようなものがありました。
1904年(明治37年)
露国番兵の失敗
露国コサック兵の動作
露国コサック白昼交戦をなすの実況
日本活動写真会(=吉沢商店)提供
1904/5/1 錦輝館封切
露国斥候騎兵
1904/6/15 大阪中座封切
コザック兵の強盗
1904/7/16 大阪弁天座封切
露国総指揮官クロパトキン旅順到着の際大観兵式の実況
1904/9/4 神戸歌舞伎座封切
1905年(明治38年)
バルチック艦隊カムラン湾上陸の光景
1905/6/11 神戸大黒座封切
2000ft
1906年(明治39年)
露艦叛乱の大惨状
1906/1/11 大阪旭座封切
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